聖書箇所
主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことがないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は良いものに何一つ欠けることはない。(詩篇34篇9節―10節)
<関連聖句>
1.申命記1章19節−2章7節
2.詩篇23篇1節―6節
3.エレミヤ書29章10節ー14節
4.マタイの福音書6章5節―13節
<メッセージ>
民数記11章4節―6節に「また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。『ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。』」と、イスラエルの民だけでなく民に混じってきていた者たちでさえも紅海の海水が二つに分かれて、かわいた地を歩き、追って来たエジプト軍がひとり残らず溺死したのを見て神の偉大さを体験していたにも関わらず、欲に支配されると、主に尋ね求めるよりも不平を鳴らして主につぶやいたり泣いたりしたのですが、それを見たモーセも民と同じように「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたの厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を負わされるのでしょう。・・・・私にこんなしうちをなさるなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」とつぶやいたので、主は民に「あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、一か月でもあって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」と告げるように仰せられたのですが、モーセは「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万人です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」と申し上げたので、主は「主の手が短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」と答えられ縦横1日の道のりほどの広さに渡ってうずらを2キュピト(88cm)の高さにまでふらせたので、最も少なく集めた者でも十ホメル(2300リットル=1リットルの牛乳パック2300個分)であった、とありますが、彼らが噛み終わらないうちに主の怒りが民に向かって燃え上がり、欲望にかられた民は疫病にかかり亡くなったのでした(民数記11章10節―34節)。今日の聖句が「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことがないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は良いものに何一つ欠けることはない。」と、ヤコブの手紙1章5節―6節が「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることもなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」と勧めているように、神にとって不可能なことはないことを、必要なものは与えてくださることを、私たちの弱さをご存知でとりなしていてくださる主に感謝をささげ、主を恐れる、すなわち、敬虔な思いをもって主をほめたたえて生きようではありませんか。