詩篇130篇3節

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。

<関連聖句>

1.詩篇103篇1節—14節
2.イザヤ書55章6節—7節
3.ミカ書7章18節—20節

<メッセージ>

キリスト者となったパウロは「さて、私たちは、律法のいうことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。

それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

なぜなら、律法を行う事によっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。

律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義がしめされました。

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです(ローマ人への手紙3章19節—24節)」と、パリサイ人として生きていたときには律法による自分の義に生き、教会を迫害していましたが、キリスト者となったパウロは本当大切なことに気がついたのでした。

多くの人はイエス様が神であることを知らずに、自分たちの考えで様々な神々を造り、それを拝んで満足し「罪」の意味が「的外れ」で、人を創造された創造者なる神を認めないことが罪である事を知らずに自分の義に生きているのではないでしょうか。

しかし、人は完全でなくだれでも不義、すなわち、さまざまな多くの失敗をしますから(ヤコブの手紙3章2節)、主の前に立つ事ができませんが、罪人のために「父よ。

彼らをお赦しください。

彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなされ、ご自身を「なだめの供え物」としてささげられ神の愛を示されたことによって、神がどのような方であるかを知った私たちにできることは、今日の聖句が「主よ。

あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。

しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」と語っているように、主を恐れる、すなわち畏れ敬うことしかできない、というより、それこそが一番大切なことではないでしょうか。