2008年12月のメッセージ 榊原 寛

クリスマスー贖いの代価として世に来こられたキリスト


 クリスマスは、イエス・キリストが生まれた事を記念する日です。クリスマスとは、神が人となり、全ての人を救うために救い主として世に来られた日です。
 さて、私たち日本人は、人が神になったり、仏になったりすることについては、あまり抵抗がないようですが、その逆の、神が人になるということについてはどうでしょうか。
むしろ、人間が神になる事は不可能と言ってもいいでしょう。しかし、神が人になる事は、神ならば出来ると考えられないでしょうか。
イエス・キリストは、人々に向かって、ご自分のことを、「人の子」と言われています。キリストはこのように言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
キリストは、誕生の時から十字架に死ぬ時まで、私たちと全く同じになられたのです。いえ、それ以下になられたと言っていいでしょう。
聖書は、神の子救い主の誕生を、次のように述べています。「マリヤは月が満ちて、男の子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
そこには温かい産湯もなかったでしょう。明るく奇麗な部屋でなく、暗く、臭い匂いのする家畜小屋でした。さらに、十字架への死の道行は、裏切り、憎しみ、嫉妬を背に受け、孤独で痛みと苦しみそのものでした。
実にキリストは人間として私たちが地上で受けるあらゆる苦しみを人の子として受けられたのです。
それではなぜ、神が人の子にならなければならなかったのでしょうか。先ほどの聖書をもう一度読んでみましょう。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
つまり、「多くの人の贖いの代価として、自分の命を与えるため」なのです。贖いの代価とは、当然支払われなければならない代償をさします。つまり、私たちは、不信仰と背信とをもって神に敵対していたものなのです。結果、人間関係においては、自己中心があり、憎しみや敵意もあり、偽りやごまかし、憎しみや妬みなど数限りなく罪を犯している罪人です。わたしたちはその罪の代償を求められるとするならば、何をもって支払うことができるでしょうか。つまり、キリストが、私たちの罪の代償を十字架に支払ってくださったのです。それが、キリストが言われた、「贖いの代価」なのです。このことによって、私たちは贖われたのです。救われたのです。
キリストの来臨を祝うクリスマスは、このような深遠な意味があるのだということを、知っていただき、神の愛とキリストによる救いをつかんでいただきたいのです。
 2008年の12月、そしてクリスマスを意義ある日々としてお過ごしください。そして、迎える2009年の新年に、天からの祝福があなたに豊かにあるようにお祈りいたします。


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