2007年07月のメッセージ 榊原 寛

『心の貧しい人は幸いである』


 今年の4月にカンボジアに行ってきました。小児科病棟やそこに入院している子どもたちのための給食センターなどの視察と、ウドンという村を訪ねました。その村の小学校に出かけたときに小学生たちと写した写真を、口に絵筆をくわえて詩画を描かれる星野富弘さんにメールで送ったことがありました。
間もなく彼から返事が来ました。「写真を見せてもらいました。子どもたちの目は、輝いていますね。」という内容でした。

カンボジアは、近隣のベトナムやタイなどと比べると、復興はかなり遅れています。ポル・ポト政権下で大勢の有能な人々が家族ぐるみで虐殺されてしまったということもあります。物質的には、カンボジアは貧困の一字です。子どもたちの部落も、井戸もなく、乾季には水も食べ物も干上がってしまっています。しかし、目は輝いています。貧しさのゆえに、卑屈になっているのでもなく、不平や文句ばかりの生活ではありません。貧しいのだけれど心の豊かさがそこに同居して、貧しさを感じさせないというのが不思議です。だからといって、支援は必要ないかということを言おうとしているのではありません。医療施設、教育のための学校の施設のための支援、いろいろな分野で働く人々の養成など、私たちがさせていただくことはたくさんあります。

ところで、豊かな日本に、何かがかけている。貯金はほどほどにある。食べ物は豊かにある。着る物、持ち物も余っているほどだ。なのに、心が貧困なのだ。そんなことを痛切に感じるのは私だけでしょうか。むしろ、お互いが、何が貧しいのかということさえも気づかないのではないでしょうか。皮肉なことに、自分の魂は、物質的なものや便利さに満ち足りていてー実は満ち足りていないはずなのにー不自由さを感じさせないでいたり、貧困さを感じさせないのではないでしょうか。
「神の旅人―パウロの道を行く」の著者、森本哲郎氏はその著書に、次のように言っています。「自分の魂に満ち足りている人に神の声は聞こえない。魂に何がかけているのか。それにさえ気付かぬ人にどうして何かを求め、門をたたき、必死で探す『希求』が生まれようか。人は物足りなさ、財力の不足にはきわめて敏感だ。肉体の苦痛にも敏感である。だが、一応に物が満たされ、肉体の苦しみから免れていれば、それでつい自足してしまう。いちばん大切な心、いのちの根源とも言うべき魂に何かが不足していれば、いや、それがいかに空虚であっても、つい、其のまま打ち捨てておくのである。」

キリストの言葉が響いてきます。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」魂の奥底から、神がキリストによって与えようとされている豊かな恵みを求め、真のスピリチュアルな生き方をしていきたいのです。
フライデーナイトにお出かけくださり、ご一緒に聖書の中からお互いの魂の豊かさを求めてみたいと思います。お友達とご一緒に気軽にお出かけください。


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