2005年09月のメッセージ 関根 一夫

神のわざ


 9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見  かけられた。

9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が  見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。そ  れとも、両親ですか。」

9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親  が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためであ  る。(ヨハネによる福音書9章1節~3節)

**

当時生まれつき目が不自由な人に対する偏見がありました。弟子たちは早速、その意見を土台にしてイエス様は尋ねました。因果応報的な発想が社会にありましたので、この質問は当然と言えば当然なのですが、でも、弟子たちはその答えを聞いてどうするつもりだったのでしょう。きっと、もうこの人に対してなにひとつ出来ることはないと決め付けて、同情も愛も示さず通り過ぎてしまっても痛みひとつ感じなかったに違いありません。

イエス様は、まったく別のことを答えています。「神の業がこの人に現れるため」と言われたのです。「遣わされた者」という意味の名前がついているシロアムの池で目を洗うようにお命じになり、この人がそこで洗うと見えるようになるのです。「遣わされたもの」という名前は、当然、神様から遣わされた救い主イエス様を暗示しています。人は神様から遣わされたイエス様によって心を洗われるのです。

「神様のわざ」がここにはふたつの形で教えられています。ひとつは「遣わされたもの」の池で洗うと肉体的にも霊的にも見えるようになり、癒しがもたらされるという一面と、そこで洗うことによりイエス様がどういうお方なのか、どんどんわかってくるという一面です。つまり、イエス様を信頼することで、心の目が開かれ、霊的な祝福を味わえるようになるのです。これはまさに神のわざです。もちろん、肉体的に現実的に癒されることはあります。しかし肉体的な癒しが、たとえなくても、神のわざは実行されているのです。

弟子たちとの会話の中で、イエス様はこう言いました。

そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」ヨハネ6:28-29

イエス様を信頼すること自体、神のわざであり、また、不思議にイエス様を信頼すると、ますますイエス様のことを知りたくなってくるのです。この9章の物語を読んでいくと、この人がイエス様のことをどんどん弁明し、すっかりイエス様のことを心に神様から遣わされた救い主として信じている様子が書かれています。その弁明は圧巻です。

聖霊は信じる人たちの心に、イエス様をもっと知りたいという意欲とそのお方の素晴らしさを啓示してくださいます。あなたの中におられる「イエス様」はお元気ですか?そのお方をもっと知りたいと願っていますか?神のわざは、求める人たちの中に今日も起こっています。

フライデーナイトでお会いしましょう。


無断での複写、転載を禁じます。 お茶の水クリスチャン・センター 
CopyRight(C)2006-2008 ochanomizu Christian Center All Rights Reserved