2018年12月8日(土)
 すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
(ヘブル人への手紙12章11節)

<<関連聖句>>
1.イザヤ書32章17節―18節
2.ヨハネの福音書14章22節―29節
3.ヤコブの手紙3章13節―18節
<< ヒント >>
 今日の聖句は「すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」と、単なる実ではなく「平安」と「義」が関わっていることを語っています。

十字架で流された血によって、キリストを信じる者は罪赦され、神との和解が成立しているために、この世が与えることのできない平安が与えられていますし(ヨハネの福音書14章27節)、イエス様を信じる者には神の義が与えられているのです。

ですから、平安も義もキリストによって与えられているので、イエス様が仰せられたように実を結ぶためにはイエス様にとどまる必要があるのです。

ところで、主は後継者について「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。」とダビデに約束されたのでした。

ヤコブの手紙3章2節が「私たちはみな、多くの点で失敗をする者です。

もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」と、ソロモンが「罪を犯さないキリスト者人間はひとりもいない。」と語っているように、私たちは神の子とされていますが、完全ではないので間違いを犯しやすい者ですが、神の子という立場は不動のものです。

ですから、キリストにとどまらずに自分を愛して生きると、ダビデに約束されたように、さまざまな問題や試練が臨むことを許されるので、苦しくなったり、悲しくなったりするでしょう。

そのような時、十字架を仰ぎ見て主に立ち返るなら、主との関係が回復し平安な義の実がそこに結ばれるのではないでしょうか。

ローマ人への手紙5章20節が「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」と語っているように失敗するごとに、信仰の完成者であり、とりなしていてくださる主を見上げ、主に助けを求めて生きるなら、平安な義の実がたくさん結ばれることになるのではないでしょうか。

日々の聖書とメッセージ (「賛美と聖書の集い」ボーマン・ルリ子 )