2018年9月14日(金)
 私のことばと宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力に支えられるためでした。
(コリント人への手紙 第一 2章4節―5節)

<<関連聖句>>
1.コロサイ人への手紙2章1節―3章3節
2.ヘブル人への手紙12章2節―3節
3.ペテロの手紙 第一1章18節―21節
<< ヒント >>
 イエス様が「あなたがたは、今夜、わたしのゆえにつまずきます。

『わたしが羊飼いを打つ。

すると、羊の群は散り散りになる』と書いてあるからです。」と話されると、ペテロは「たとい全部の者があなたのつえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と申し上げたのですが、イエス様が「まことに、あなたに告げます。

今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と言われたので、ペテロが「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言うと、弟子たちはみなそう言ったのでした(マタイの福音書26章31節―35節)。

ところで、ルカの福音書22章31節―32節にはイエス様が「シモン、シモン。

見なさい。

サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

しかし、わたしは、あなたがたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。

だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と、主を知らないという背後には神が許されたサタンの働きがあること、ペテロの信仰がなくならないようにイエスさまは祈られたことを語っています。

結局、イエス様が預言された通りのことが起きたのですが、神はペテロが自分を信じても、そのような信仰はもろいことを知るようにサタンが働くをことを許されたのではないでしょうか。

ペテロはその経験から、生れつき足のなえた人が癒されたのは、自分の力とか信仰深さではなく、「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが見ており知っているこの人を強くしたのです。

イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」と、今日の聖句でパウロが「あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力に支えられるためでした。」と語っていることと同じように話したのです。

「私には信仰がない。」と思ってしまいがちになるとき、今日の聖句やヘブル人への手紙12章2節「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」を思い起こすとともに、信仰がなくならないようにペテロのために祈られた主は私たちのためにも祈っておられることを感謝して生きようではありませんか。

日々の聖書とメッセージ (「賛美と聖書の集い」ボーマン・ルリ子 )