2018年9月11日(火)
 私たちの手をも心をも天におられる神に向けてあげよう。
(哀歌3章41節)

<<関連聖句>>
1.詩篇63篇1節ー8節
2.詩篇86篇1節―5節
3.ピリピ人への手紙3章17節―4章1節
4.コロサイ人への手紙2章18節―3章4節
<< ヒント >>
 手はお年寄りの荷物を持ってあげたり、掃除洗濯をしたり、ボランテイアの人々のように他の人と一緒に救助の働きをするなど、手はさまざまな働きをしますが、時には感情にかられて今問題になっているように暴力をふるようなこともしてしまいます。

手の動きは心のあり方に関係があるのではないでしょうか。

アサフは神よりも、神をないがしろにして誇り高ぶっている人々が何の苦労もなく豊かに暮らしている様子を見て悩み苦しみましたが「私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。」と語ってから「私の心が苦しみ、私の内なる思いが刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。

しかし私は絶えずあなたとともにいました。

あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。

あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。

天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。

地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」と主が彼の右の手をしっかりつかまえられ罪を犯さないように守られたことを語っています。

心が神に向いていると手の動きや働きも変わるのではないでしょうか。

モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレク人が優勢になったので、モーセの手を日が沈むまでアロンとフルが支えたので、イスラエルに勝利がもたらされたのでした(出エジプト17章11節―13節)。

パウロは「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい(テモテへの手紙 第一2章8節)」と勧めていまが、ガラテヤ人への手紙3章27節―28節は「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストを着たのです。

ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。

なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と語っています。

ですから、試練に会うと悩んだり、思い煩ったりしますが、モーセが手を上げている時には勝利していたことを思い起こし、性別や立場に関係なく、今日の聖句が「私たちの手をも心をも天におられる神に向けてあげよう。」と勧めているように、主のことを思い起こし、家では問題なくできますが、家の外でも、時には人目につかないところで手をあげて主に祈ろうではありませんか。

日々の聖書とメッセージ (「賛美と聖書の集い」ボーマン・ルリ子 )