2017年8月9日(水)
 ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。
(テモテへ手紙 第一 5章24節)

<<関連聖句>>
1.コリント人への手紙 第一 4章4節—5節
2.コリント人への手紙 第二 5章1節—11節
3.黙示録20章11節—15節
<< ヒント >>
 伝道者の書3章11節が「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

神はまた、人の心に永遠を与えられた。

しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」と語っているように、人は他の被造物と異なって永遠(口語訳:永遠の思い)が与えられているために、人は死んでもそれで存在が無に帰するという考えを持っておられる方でも結局死後自分はどうなるのか、と不安な状態になるのではないでしょうか。

それを乗り越えるために人はさまざまなことを考えて宗教を生み出しましたが、宗教は便宜上の手段としてのものであり、気休めを与えることができても罪の解決を与えることはできません。

人が死を恐れる原因には死後どうなるのかわからない、という不安だけでなく、ローマ人への手紙2章人14節—16節が「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。

彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」と語っているように、人は死後、さばかれることを知っているのではないでしょうか。

今日の聖句は「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。」とあるように、刑に服している犯罪者たちは神のさばきを受ける前から明らかにされて刑に服しているわけですが、それは幸いなことです。

なぜなら、刑務所や少年院には教誨師として働いている牧師から罪の解決を与えてくださる福音を聞いて悔い改めるチャンスがあるからです。

箴言20章8節—9節が「さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。

だれが、『私は自分の心をきよめた。

私は罪からきよめられた』と言うことができよう。」と語っているように人は罪を消すことができません。

しかしイエス様は私たち主を信じる者の全生涯の罪の罰を十字架で受けて罪を赦すだけでなく、取り除いてくださり神のさばきにからも解放してくださり聖霊によって心をきよめてくださったのです。

ですから、すべての人にイエス様が必要なのです。

日々の聖書とメッセージ (「賛美と聖書の集い」ボーマン・ルリ子 )