2018年1月21日(日)
 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
(ガラテヤ人への手紙6章3節)

<<関連聖句>>
1.エレミヤ書9章23節—24節
2.ダニエル書4章10節—36節
3.エペソ人への手紙 4章17節—24節
4.ヨハネの手紙 第一 1章8節—10節
<< ヒント >>
 モーセは民に「あなたがたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。

−主は、あなたがたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。

それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわしにするためであったーあなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。

あなたの神、主を心に据えなさい。

主があなたがたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたがたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。

(神申命記8章12節ー18節)」と神の意図は民がしあわせになることであり、富を築き上げる力も主からのもので、自分を誇ることのないように警告されました。

人は成功すると簡単に自分を誇ってしまう傾向にありますが、キリスト者であっても主を忘れると同じような状態に陥ってしまうのではないでしょうか。

パウロは心の葛藤を覚え「私は、ほんとうにみじめな人間です。

だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょう。

(ローマ人への手紙7章24節)」と告白してから、救いはイエス様によってもたらされたこと、そして「私はこう確信しています。

死も、いのちも、み使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」とキリスト・イエスにある神の愛の力強さを語っています。

この世に生きているかぎり、肉の思いに支配され自分を誇るような思いに駆られたときには今日の聖句「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」を、主の恵みによって義人とされていることを思い起こして生きようではありませんか。

日々の聖書とメッセージ (「賛美と聖書の集い」ボーマン・ルリ子 )